2023年4⽉にオープンした敷島⾃治区の新しい拠点、しきしまの家。中を覗いてみると、近所の⼈がコーヒーを囲んで話に花を咲かせています。その様⼦を、穏やかな笑顔で⾒つめているのが、しきしまの家運営協議会の代表、後藤哲義(ごとうのりよし)さん73歳です。
「今⽇来てくれた⼈が、『ここができて良かった。なんかあったらすぐに⾶んでくりゃいいもんで安⼼だわ』と⾔ってくれた。すごいことだよね」と話します。2022年の初め頃、哲義さんが区⻑の時に「たまり場が欲しいよね」と、しきしまの家をつくる構想が⾃治区で持ち上がり、およそ1年で実現に漕ぎつけました。
哲義さんはこれまでの⼈⽣で、郵便局⻑として、区⻑として、⾜助警察署の防犯協会⻑として、「地域のために何ができるか」を考え、⾏動に移してきました。いつも⼼の中で聞こえていたのは、旭村会議員を2期、旭町会議員を2期、計16年務め、国から地⽅⾃治功労の叙勲を受けた⽗・弘(ひろむ)さんの⾔葉。
『損得を考えて⾏動するな。お前の⼒じゃない。周りの⼈のおかげだぞ。感謝しろよ』
「地域のため」という強い思いはどのように⽣まれ、引き継がれたのか。哲義さんに、亡き⽗の思い出とご⾃⾝の歩みについて伺いました。
死なずにすんだ命で地域のために尽くしたい
⼤正9年に⽣まれた弘さんは、第⼆次世界⼤戦中に満州へ出兵。しかし、現地で病気になり台湾へ移送されて療養します。その間に、所属していた隊のメンバーのほとんどが亡くなっていました。
「親⽗は、『戦死も病死もせず命拾いした。その恩返しのためにも、地域でやれることは何でもやらないかん』ってずっと⾔っていました」
戦争が終わると、弘さんは⾜助地区の⽣家から後藤家に養⼦に⼊りました。後藤家では、⻑い間男の⼦が⽣まれておらず、哲義さんの⺟も幼い頃に養⼥として来ていました。その⼆⼈の間に⻑男として誕⽣したのが、哲義さん。
「おじいさんが、『100年ぶりの男の⼦だ』って喜んでいたと聞いています」
戦後、⾼度経済成⻑の波が押し寄せ、マイクロバスに乗って町の⼯場に働きに出る⼈がほとんどでした。弘さんはといえば、会社に勤め始めても1〜2ヶ⽉ほどで辞めるということを数回繰り返し、その後は家で仕事をしていました。
「みんなは定期収⼊を得ているのに、うちは何で……と、当時は思っていたけれど、会社に縛られることが親⽗の性格に合わなかったのだと思う」
⽥畑を耕し、⼭の⽊を切る。炭窯で焼いた炭や栽培した椎茸を売ったり、稲の脱穀や乾燥を請け負ったりして現⾦収⼊を得る。そんなふうに暮らしを成り⽴たせていました。
地域と⼈のために働き続けた⽗の⼈⽣
哲義さんが中学⽣の時、弘さんは地域の推薦を受けて村会議員に⽴候補し、当選しました。
「⻑い間、消防団⻑として熱⼼に活動していたから⼈望を得ていて、ファンの⼈たちも結構おったと思う」
加えて、弘さんは今でも語り草になるほどの褒め上⼿、語り上⼿。⾃宅には、度々⼈が訪れ、宴会が開かれていたそうです。
「いい酒だったよ。親⽗は酔うと気に⼊った⼈をつねくる癖があって(笑)ニコニコして楽しく飲んでいました」
議員になった⽗について哲義さんが覚えているのは、「きちんとした根拠の元に、間違いのない判断をして旭を守っていかなければならない」と、本を開き勉強している姿。村会議員と町会議員を4期16年務めた弘さんは平成20年、88歳の時に地⽅⾃治功労者として国から叙勲を授与されました。
「200⼈くらいの⽅に集まってもらって盛⼤にお祝いしてもらうことができました。ありがたいことだよね」
議員という⽴場になり、叙勲を受けるという名誉を得ても、弘さんは決して偉そうにふるまうことはありませんでした。晩年には、⾜を悪くして歩くことが困難になっても、腕の⼒で軽トラックの席に乗り、⾃ら運転して、地⾯を這って鎌で草を刈っていた⽗。
「仕事をしていた僕がちょっとでも楽になるようにと、朝早く⾏って刈っとったんだよね。こうと決めたらどんなことがあってもやるという信念の持ち主でした」
⽗の⽣き様を⾒てきた哲義さんは、今でも「周りの⼈に尽くし、感謝を決して忘れるな、というあの⼈の教えを守らないかん」と感じています。
私財を投じて局舎を建てなおす覚悟
家で仕事をし、消防団⻑や議員として働く弘さんを⾒てきた哲義さん。⽗を反⾯教師として芽⽣えた「きちんとした定職に就かなければ」という思い、⽗から学んだ地域のために汗を流す⼤切さ。その両⽅から、公務員になることを志しました。20歳の時、郵政省の試験を受けて合格。2年間は、平針で⼀⼈暮らしをして、昼間は郵便局で働き、夜は愛知⼤学の夜間部で学ぶという⽣活を送っていました。⼤学を卒業し、1年間の幹部研修を終えた後、実家に戻り岡崎や松平など赴任先の郵便局に通いました。
ある時、上司から「お前、覚悟を持って⾏けるか?」と局⻑の内⽰をもらったのが、⾜助地区の明川郵便局。⽼朽化していた明川郵便局は建て替えの時期にあり、哲義さんが局⻑として赴任して建て直すか、赴任せずに郵便局を無くすかの選択が迫られました。
当時、『局⻑個⼈が⾃費で局舎を建て、郵政省が局⻑に賃借料を⽀払う』私有局舎という制度があり、赴任することを選べば多額の借⾦を抱えることがわかっていました。「⽗にも反対されましたが、地域の⼈たちがこの郵便局がないと困ると⾔うのを聞いて、もうやるしかない!と建てることにしました」と哲義さん。
知恵と汗があれば地域貢献できる
平成6年、42歳の時に新局舎が完成。局舎のロビーは、地域の⼈たちが⽴ち話できるように広くし、学習スペースとして使える部屋も作り、哲義さんは「覚悟を持って⾏った愛おしい局。地域の⼈に貢献したい」というあふれんばかりの気持ちで局⻑の仕事に就きました。
「局を利⽤してくれる地域の⼈に、仕事で恩返しをするのは当たり前。皆さんが元気になってもらうために、アイデアを出し、汗をかいてやってきました」
学習スペースで、絵⼿紙教室や押し花教室などを定期的に開催。年に数回⼩学⽣のいる⺟親に集まってもらい、直接⼦育て世代の声を聞く会を作りました。空き⽸のプルトップを集めて⾞椅⼦に交換し、⾜助町に贈呈するキャンペーンを⾏ったこともありました。
局舎築1周年も、楽しんでもらえるようにと企画をしました。地元⼩学校の講堂を借りて、⼤須演芸場の芸⼈、喜劇団笑劇派(しょうげきは)などを呼んだステージを実施。また、レストランを貸し切り、地域の⼈なら無料で⾷べてもらえる振る舞いをしました。費⽤はすべて哲義さんの⾃費で賄ったというから驚きです。
哲義さんは、局⻑として在任中の19年、毎年⽋かさずに局のある明和⾃治区の全⼾を訪問し、顔の⾒える関係をつくり続けました。
「地域の⼈に笑顔になってもらうことを考え抜いてやってきました。当時の職員さんたちの理解と協⼒があって⾊々やってこられて感謝です」
62歳で定年を迎えた時、地域の⼈たちが送別会をしてくれたこと、退職して10年経った今でも「おまんがおった時、すごい楽しかったよ」と声をかけてもらえること。「やってきたことを認めてもらえることは、ありがたいことです」と感じています。
次世代のことを考えた区⻑の決断
退職後、哲義さんを待っていたのは、⽣まれ育った敷島⾃治区でのお役でした。ある⽇の会合で「お前、副区⻑やるだぞ」と地元の⼤先輩から声をかけられ、何か役に⽴てることがあればと引き受けることに。『副区⻑をやって、区⻑になる』という慣例があり、2017年に区⻑になりました。
「旭⽀所にとっては、僕は煙たい区⻑だったと思うよ」
哲義さんは、副区⻑の4年間に気付いた⾃治区の課題について、⽀所に改善の要望を出し続けました。その結果、指定避難場所になっている敷島会館へのAED設置、重くて⾼齢者が開けづらい⽞関ドアを⾃動ドアに替えることが叶いました。
「やっていただけた時はうれしかったです。やっぱり来た⼈が安⼼しておれるような場所を作らないかんでしょ」
県にも同様に敷島会館付近の歩道整備を依頼し、⼯事が決まっているということです。
区⻑として⼤きな決断をすることになったのが、しきしまの家の実現。「ふらっと気軽に集まれる場がほしいよね」という⼥性たちの声が聞こえてきたタイミングで、旧杉本保育園を改修して使えることがわかり、「絶対にやるべきだと思った」と哲義さん。
「⽣まれる⼦ども、移り住んでくれる⼈を合わせても毎年20⼈に満たない。でも、区⻑として毎年20回は必ず葬式に出ます。どうしたって⼈は減る。⼀⼈暮らしの⾼齢者が増える。お店もない。若い⼈たちも集える憩いの場をつくるというのはすごくいいと思った」
哲義さんの脳裏に浮かんでいたのは、郵便局⻑時代に眺めていたロビーでの光景。
「想像ができました。⼈が集まると笑顔になる。そういう場所が⼤事だとずっと思ってきました」
町内会⻑が集まる会合で寄付を募っていた時、「まだ時期尚早じゃないか」という意⾒が出たことがありました。普段は柔和な笑顔をくずさない哲義さんが、表情を変えて⼀喝。「今まで何回説明会をやってきたと思っているんだ!決断するのは今!区⻑として全責任を持つ!」と宣⾔。しきしまの家の実現に向けて、流れが定まった瞬間でした。
⽗と同じく国から勲章を授与された
哲義さんが郵便局⻑の頃から現在まで、続けているのが⾜助防犯協会の活動。地域の防犯ボランティア団体への情報提供やグッズ配布、⾜助警察が実施する年4回の安⼼安全なまちづくりキャンペーンへの助⾔など市⺠の防犯意識を⾼める取り組みを⾏っています。
「⽥舎だからって無施錠で出かけるような家も多いけど、昼間にプロと思われる泥棒が⼊る事件もある。特殊詐欺の電話もたくさんかかってきて1000万円以上取られたケースもあった。地域の安全のためには、防犯活動は⼤事だね」
61歳の時に⾜助防犯協会⻑を任され、その10年後、⻑年の功績が称えられて藍綬褒章を受章しました。
「まさか僕がいただけるとは思わなかった。驚きました。⾜助警察の当時の係⻑が⼀⽣懸命に推薦してくれたおかげだと思います。感謝だよね、やっぱり」
取材を終えて
戦争と病気を乗り越え、⽣かされた命を周りの⼈のために使うことを決意し、その通りに⽣きた⽗・弘さんがことあるごとに哲義さんに伝えていた「お前の⼒じゃない。周りの⼈のおかげだぞ」という⾔葉。今回の取材でとても印象に残りました。
例えば、⼤学に合格した時、仕事でうまくいった時、「⾃分が優れていたから、能⼒があるからだ」と思ってしまいがちですが、よく考えてみれば、社会、地域、家族、友⼈がなければ、⽇々の暮らしさえままならないことに弘さんの⾔葉は気づかせてくれます。
周りの⼈を⼤切することで、⾃分も⼤切にされ、みんなの幸せにつながる。⼈が減っていく社会に⽣きるのに⽋かせない利他の精神を引き継いだ哲義さんが、⽀え合いの拠点であるしきしまの家の代表になっている意味合いの⼤きさをしみじみと感じる取材でした。