2022.12.23

家を継ぐ重圧も、嫁ぎ先での苦労も、笑顔で話せる仲間がいる幸せ〜まさちゃん・いっちゃん・きくちゃん3人衆

※左から、まさちゃん、いっちゃん、きくちゃん

1947年生まれの堀田イツ子さん(以下、いっちゃん)と、1949年生まれの松井きくえさん(以下、きくちゃん)は2人とも長女。押井で生まれ、婿を迎えました。1944年生まれの鈴木正子さん(以下、まさちゃん)は、旭地区のお隣、小原地区で生まれ、押井の人と結婚し、押井の住民になりました。

年の近い3人は、押井から車で10分ほどの場所にある自動車用シートカバー縫製会社、旭工業株式会社に長年勤めたことで仲良くなりました。退職してからも、こまめに連絡を取り合っています。

例えば、毎月第3日曜日に旭観光協会周辺で開催される旭マルシェ『あさひ照ラス』に、押井にある農家民宿ちんちゃん亭のキッチンカーが出店すると聞けば、「今日は行く?」と誘い合い、出かけていきます。一人が口を開けば、他のふたりが「ほうだ、ほうだ」と頷き、「ははは」と和やかな雰囲気になります。

「昔はいろいろあったけど、良かったかなって思えるもんね」と話す3人。まさちゃん、いっちゃん、きくちゃんはどんな時代を生きてきたのでしょうか。

お見合い結婚が当たり前だった

ーー子ども〜学生時代〜結婚するまではどのように過ごしてきましたか?

きくちゃん みんなで泥んこになって遊んどった。夏になれば狭い川をせき止めて泳いだりしてね。あの頃は子どもの数が多くて、敷島小学校は1学年2クラス、中学は3クラスあった。長女だから、中学から百姓やらされていた。

きくちゃん(右)

松井きくえさん(きくちゃん)

足助高校に通っていた時には、「明日、休め」と親に言われて翌日田んぼにいると、友だちに「何やっとるだ〜!」と声かけられて、「家を手伝っているから先生に言っておいて〜!」と返事した覚えがある。

高校を卒業すると、父親が、農協の理事だった隣家のおじいさんに話をつけてきて「お前、農協行くだぞ」と。それで3年農協に勤めて、旭工業にちょっとだけ勤めて、お見合い結婚しました。

いっちゃん 私も長女だから、旭中学を出て、岡崎市の追進農場(ついしんのうじょう・現在の愛知県立農業大学校)に行った。その後、足助で和裁を習って、その後洋裁を習いながら自動車学校に通いました。成人式には自分で作ったベルベットの洋服で出ました。22歳くらいの時に、お見合い結婚しました。

いっちゃん

堀田イツ子さん(いっちゃん)

まさちゃん 小原地区の上仁木町(かみにぎちょう)の出身です。中学を卒業して、岡崎市の日清紡績・針崎工場に勤めていました。姉さんが、旭地区の小渡に嫁いでいてね、小渡の郵便局の配達員が嫁を探しているということで、お見合い結婚しました。

ーーみなさんお見合い結婚だったんですね。

きくちゃん 昔は、「この家に、この人はどうか」と勧めてくる世話人がいたの。それに長女だから、父親から「きくがこの家におらんといかんぞ」と言われてしつけられてきた。家を継いでいかなきゃいけないから、親たちと仲良くやっていける人じゃなきゃいけない。そんな人は自分では探せない。探してもらった人ならこの家に落ち着いてくれるかなって。

いっちゃん しょうがないと思っていた。継がんならんと思っていた。ちょっとは「いいなー」と思った人はいたけどね(笑)どうせ家に来てくれる人じゃなきゃいけないからね。

ーーどんな結婚式だったんでしょうか。

まさちゃん うちを出て、耕運機に乗って、兄さんたちが少しずつ広げてくれた道を峠まで上がってね。30分じゃ上がらなかったと思うよ。それから車に乗り換えて、押井まで来たんだよ。それが結婚式の当日。本当に田舎におったんだよね。

きくちゃん 迎え婚という格好でね。うちの夫は足助地区の綾渡町(あやどちょう)の出身だから、美容院で着付けして、お仲人(なこうど)さんと一緒に綾渡まで迎えに行くの。夫の親戚がずらーっと並んでいて、そこで式をやる。押井では、こちら側の親戚が「まだかまだか」と待っている。大騒動だったよ。

昭和40年代頃、一般的だった結婚式の様子

いっちゃん うちの夫は、旭地区の明賀町(あすがちょう)から来ていて、同じように迎え婚だった。家でやるし、昔だもんで、酒を飲むと区切りがないでしょ。

きくちゃん 夜中過ぎても誰も帰らなかった。早く衣装を脱ぎたい一心だった覚えがある。うちで結婚式をやったのは、私たちまでくらい。下の世代は、式場でやるようになったからね。

葬式も家でやる時代

ーーご結婚されてからの暮らしはどのようなものでしたか?

いっちゃん 結婚したのが22歳くらいの時でね。2〜3年は夫が押井から名古屋の金属の会社に通っていたんだけど、いっぺん事故してね。それからは65歳で辞めるまで、夫ひとりで名古屋で暮らすようになって。それでも、こっちで消防団や、棒の手、地域の役をやらんならんことがあるでしょ。その度に帰ってきていたけどね。

きくちゃん うちの夫は名古屋で大工として勤めていたから、結婚して7年は名古屋に住んでいた。長男は名古屋市立の幼稚園を卒業するタイミングで、じいさん(父親)が「ランドセル、自転車、買ってやるから来い」と言ってきて、それに負けてうちに入った(笑)

夫は、「棒の手なんか絶対にやらん!」と言っていたけれど、やり始めたらのめりこんでね。いっちゃんの旦那さんといいコンビだったんだよね。

いっちゃんと私は押井生まれだから、結婚して言いたいことを言っても、地元のみんなから「あぁ、あの子んたちが言っとるわ」くらいに思われていたと思うけど、まさちゃんは外から来て大変だったと思う。旦那さんのおばあちゃんが、きつい人だったもんね。

まさちゃん  夫の両親は押井を出て岡崎にいた。孫に家を継がせたかったんだと思う。夫が祖父母と暮らす家に入った。婦人会でもめごとがあると、おばあちゃんのところに相談に来てね。「よしよし、おれが行って話つけてきてやる!」と言って折り合いをつけてくるような人だった。

神明神社・例祭にて。後方・右から2番目が、まさちゃん。

きくちゃん 私たちが小さい頃からあのばあちゃん、怖かったもん。昔、お宮さんでお汁粉のふるまいがあって、子どもたちはお椀を持っていくと配ってもらえた。あの当時、家に甘いものがないから「もっと、もっと」と欲しがると、まさちゃんのところのおばあちゃんが「もうおしまいだぞ!おしまい!」って号令をかけるわけ。それで、残りを孫に食べさせるために、家まで運ばせたの。後にまさちゃんの夫になる孫が、可愛くてしょうがなかったんだよね。

まさちゃん 自分の思い通りにならないと気がすまない人だった。おばあちゃんは、わしの娘も世話する気になっていて、すっごい可愛がった。小さい頃から自分の部屋に連れていって、朝から晩まで面倒見て寝る時も、おじいさん、娘、おばあちゃんの3人で寝ていた。わしが娘をかまうと、気に入らないの。

喧嘩もしたけどね。おばあちゃんは、怒ることがあっても、ちょっと時間が経てば「やいやい(おいおい)」と話しかけてきた。その場だけ怒ればいい人だったから、やってこれたと思う。それに嫁に来たからには、出ていくわけにはいかん。田舎だもん、出ていったって後に残った人が気の毒だし、小原は姉さんたちがいて戻るに戻れんじゃんね。

鈴木正子さん(まさちゃん)

ーー先ほど結婚式が家で行われていたと聞きました。お葬式はどうでしたか?

きくちゃん うちでやったね。私のおじいちゃんは茅葺き職人をしていたんだけど、料理が得意でね。押井で葬式が出ると、うちのおじいちゃんに声がかかって、本膳料理を作りに行っていた。

いっちゃん 家で葬式やっていた時は大変だったね。いろいろの段取りしたり、拝んでくれるおっさん(お坊さん)へのお茶だしとか。今は式場だからありがたいよね。

きくちゃん 旭の時瀬町(ときぜちょう)に火葬場があって、私の祖父母はそこでやってもらった。

まさちゃん 夫のおじいちゃんまでは土葬だったよ。棺桶は真四角だった気がする。中に座らせて。それを担いで運んで、穴の中に埋める。

きくちゃん 押井には ”切(きり)” っていう集落単位があって、例えばうちの切で葬式があると、上の切と下の切から、一家族から男女が一人ずつ手伝いに出る決まりになっていた。上の切が穴掘りの役目だった。

いっちゃん 女の人はお勝手(台所)の手伝いをやって、男の人は花を作ったり。

まさちゃん 花っていうのは、小銭を紙に包んだもの。

きくちゃん 竹竿の先に、竹で編んだカゴを取り付けてあって、その中に花を入れておく。出棺の時に、先頭の人がそれを振るの。それを子どもたちが拾って、そのお金で糸や針を買うと裁縫上手になるとか、鉛筆や筆を買えば字が上手くなるとか言われていた。喜んで拾った覚えがあるよ。

いっちゃん ちょうど運動会の玉入れのカゴよりちょっと小さいくらい。

まるでお祭りのような、かつての押井の葬式(昭和30年代後半)。中央上部で見切れているのが「花」を入れるかご。

まさちゃん みんなうちで亡くなっていたね。

きくちゃん 小渡町の森下医院の先生が来てね。「これでおしまいです」と最期に言われた。

いっちゃん 生まれるのも家だった。自分が生まれるのも、子どもを産んだのも。

きくちゃん いっちゃんと私は、”わかばや”っていう産婆さんに取り上げてもらった。自分たちの出産は、杉本町に石原医院があって、私も二人目までは家で産んだ。三番目だけ名古屋の病院で産んで、これが良いやと思った。

まさちゃん 石原医院は、産婦人科も内科も、何もかもやっとらしたね。途中で長野県の根羽村(ねばむら)に移って行かれた。

定年まで働き続けた苦労と誇り

ーーみなさんが勤めていた旭工業(株)について、会社のことや働いていた頃のことを教えてください。

きくちゃん 「女性の仕事を作ろう」ということで始まった会社なんです。荒川車体工業(株)の協力会社、旭工業協同組合として発足したの。株主には、旭町の町会議員さんが名前を連ねていた。

いっちゃん 旭工業のある敷島自治区の個人へも、「株買ってください」と回ってきた覚えがあるね。

きくちゃん 私は名古屋で暮らす前に、ちょっとだけ勤めていたことがあったから、押井に戻ってきた時に「また来てくれないか」と声をかけられて働くようになって。残業もあったから、うちのことは全部母親に任せて、土日になれば夫と草刈りやって、60歳になるまで28年間走り切った。

いっちゃん 私も「来ないか」と声をかけられて働きに出るようになった。両親が元気で、子どもを見てくれた。普段の家事も母がやりおった。やれる時には私もやる感じで。買い物は、足助のヤオミや、小渡町の彦平商店、原田屋、川上屋なんかでしていたね。昔は、榊野町のウオコマさんが車に野菜やら肉とかを積んで、行商に来ていた。

きくちゃん うちにはウオコマさんじゃなくて、槙本町からマルヘイさんが牛乳もパンもいろいろ運んできてくれた。

まさちゃん 私が勤めに出てから、家事は全部おばあちゃんがやった。本当に動けなくなるまで。

いっちゃん 私とまさちゃんは縫製の仕事、きくちゃんは事務をやっていた。縫製の工程で不良が出ないように、QC活動という品質改善を班でやっていた。発表会のために練習したり、いろんなことがあったね。

旅行で撮った写真

きくちゃん 旭工業で現金収入を得ることで、自分自身、力がついたような気がしたね。私も含めて、土日だけで百姓やって、平日に仕事に行くのはみんな大変だったと思うよ。でも家計を支えられるし、婦人としての立場も、仕事をして稼ぐことでできたと思う。文字通り現金支給だったから、うれしかった。「これで今日のおかずが買える」。誰でもそう思うじゃない。

給料日になると社長さんが自分で配りに行ったの。私は印鑑をもらう紙を持って後をついていくわけ。従業員はポケットから印鑑を出して、押す。社長が「はいどうぞ、ご苦労さん」と給料を手渡す。働いた甲斐があったなと感じる瞬間。

いっちゃん 自分でお金を稼ぐっていうことは、欲しいもんが買えるからね。旦那さんにくださいくださいじゃ、大変だからね。

ーーここ最近の暮らしについて教えてもらえますか

きくちゃん 父親の介護がメイン。自分の父親だから誰にも頼めんし。少しでも穏やかに過ごしてほしい。どこまでうちで看れるかなと思いながらやっている。最近、孫が受験に合格したの。そういう良いことがあれば、父親も喜ぶ。家族8人で暮らしていると色々なことがある。日々、それを楽しみながら生活しています。

いっちゃん 60歳くらいからマレットゴルフをやっています。旭の大会で2回優勝したことがあるの。最近はマレットやったり、友だちと喫茶店行ったり、買い物してみたりね。畑が忙しくなってくると、そんなわけにはいかないけどね。田んぼは、昔は米から芽を出して苗を作っていたけれど、ありがたいことに農協で作ってくださったり、押井営農組合が田んぼを耕したり植えたりしてくれるから大変助かってます。

いっちゃんとご家族

まさちゃん 一人暮らしだけど、きくちゃんやいっちゃんが「どっか行こう」と誘ってくれて、仲良くしてくれているからありがたいなと思う。寂しい時もあるけど、時々息子も帰ってくるし。あとは、ちょこっとね、働いている。高山農園で自然薯のナイロンの袋に土を入れる作業をしたりして。使ってもらえるもんで、ありがたい。

取材を終えて

3人とも笑顔いっぱいです

「若い衆がどえらいたくさんおるっていうわけじゃないが、おる人だけで、ニコニコしてね」とまさちゃん。その言葉の通り、時には取材場所であるちんちゃん亭の飼い猫が膝にすわる様子を「かわいいねぇ」と愛でながら、3人は始終笑顔を見せていました。

家を継いでいくというプレッシャー、嫁ぎ先での葛藤、仕事・家庭・百姓・地域のお役、いくつもの顔を持ちながら暮らしを成り立たせる忙しさ。働き、稼ぎ、社会の一員として役割を果たす喜び。

辛いことも、楽しいことも、いつも横に、押井で共に生きる仲間がいて分かち合ってきたからやってこれたのではないか。きくちゃん、いっちゃん、まさちゃんへの取材で「つながり」の大切さを改めて感じました。

ライタープロフィール

木浦 幸加

1979年生まれ。2014年からパートナーの実家がある豊田市の田舎・旭地区に暮らしています。本が好き。文章がいつも私を勇気づけてくれています。まるでページをめくるように相手を取材し、見つけた唯一無二の光を文字にできるようにすることが目標。おいでん・さんそんセンタースタッフ/とよたでつながるローカルメディア「縁側」編集長/最近の関心分野は、薪割り、山登り、ジェンダー平等、IPAビール

「自給家族」について

日本中の山村集落を、消滅の危機から救う為のモデルを創る。キーワードは「自給」と「家族」です。食と農のあり方や、持続可能な社会に関心をお持ちの皆さんが、「自給家族」として支え合う仲間に加わっていただくことで、それは実現できます。

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