大正から令和まで、100年寄り添って生き抜いた〜押井の里いちばんの御長寿夫婦

1923年(大正12年)生まれの松井政光さん、1924年(大正13年)生まれの松井シズ子さんは、押井の里いちばんのご長寿夫婦です。

政光さんが満100歳を迎えた現在でも、夫婦そろって畑仕事に精を出し、押井でイベントがある際には、立派に育った大根を材料として提供しているそうです。

畑仕事をしている松井政光さん

「お元気の秘訣は何ですか?」と聞いてみると、「なーんにも考えない。ストレスを溜めないこと」とシズ子さん。政光さんに、好きな食べ物について聞いてみると、「食欲旺盛で、何でも食べる」とのこと。

まさに押井の歴史の生き証人と言えるお二人に、長い人生のうちの数ページについてお話を伺うことができました。

馬や牛と同じ屋根の下に暮らしていた

ーー子どもの頃、どんな暮らしをしていましたか?

シズ子さん 幼い頃、庄屋(領主の下で村政全体を担当する、村落の代表者)の持ち家に住んでいた。ちょっと喧嘩すると「出ていけ」と言われてね。小学4年生の時、当時うちが持っていた畑の上に家を建てました。庄屋から田んぼも借りていて、新米ができると庄屋の蔵へ背負って入れよった。

政光さん 吊り秤で、検査員が米をチェックしていた。その検査で値段が決まった。

シズ子さん 牛や馬を飼っていない家はなかった。内馬屋(うちまや)といって、人間と同居しとった。土間の横に牛や馬の部屋があって、同じ建物の中に人間が暮らしている。ハエがたくさん出て、茶碗のご飯が真っ黒なくらいだった。追い払って食わないといけなかった。

参考:昭和30年代、出荷前の牛を手入れする押井の住民(提供:安藤和三氏)

囲炉裏があって、餅を焼いて食べると美味かった。ご馳走だったね。普段は野菜ばっかり食べていた。大きな鍋に味噌と水で煮てね。味噌は家で作っていた。麹菌を買ってきて、豆を蒸して混ぜて、室(むろ)に入れて温度を上げると花のようなふわふわした菌が出る。トントン突いた蒸した豆と、水と塩を混ぜる。

肉を食べることもあったよ。飼っている牛や馬が死んで“ませば”という場所に埋めることになっていた。埋めたかどうか検査員が確認しに来て、その人が帰るとおじいさんたちが腰に下げていった出刃包丁で皮を剥いて解体して鍋にして食べる。何という美味いもんかなと思った。

召集がかかったが出兵を免れた

ーーお二人はどのように出会って結婚されましたか?

シズ子さん 政光さんの母親と、私の父親が兄弟なので従兄弟どうし。私が小学1年生の時に、お母さんが結核で死んじゃったの。妹はまだ乳飲み子でした。父が再婚して新しいお母さんができました。いいお母さんだったけれど、学芸会も運動会も見に来てくれたことがなかった。感謝しているけど…人の子を育てるっていうことは大変なことだよね。

小学校を卒業して、親に岩津町のガラ紡工場に行けと言われたので、住み込みで2年働きに出ました。私が留守の間に政光さんが、百姓の手伝いをしにこの家に来てくれていて、そのうちに自然と結婚することになりました。

長男が生まれた昭和19年に、政光さんに召集令状が出たの。「兵隊に行って何かあってはいけない」と結婚式をやって皆に集まってもらってお酒を飲んでもらいました。

ーー政光さんは戦争に行かれたのですね

政光さん それが、召集がかかったけれど、解除になって行かなかった。その代わり、兵隊が食べるものを運んで来なさいということで、牛に米2俵を背負わせて安城まで歩きました。朝5時ごろ出発したけれど牛がなかなか歩かないもんだから、道中の家畜市場で泊めてもらった。帰りは、木炭に牛も乗せてもらって足助の御蔵まで送ってもらえました。

シズ子さん 戦争中は、押井の上空をB29爆撃機が飛んでいったよ。鉄砲玉を作るために、金属という金属が集められた。仏壇の蝋燭立てなんかも全部出した。隠したり嘘をついたりすると「非国民」と呼ばれる時代だったからね。

山や竹藪がお金になった時代があった

昭和40年代、松井シズ子さん(右)は、村一の器量良しで、敬老会などで日本舞踊を披露することが多かった。左は、押井営農組合代表理事・鈴木辰吉の母、故鈴木美登枝さん。
昭和40年代、松井政光さん(右)は、無形文化財棒の手の「棒使い」の名手。腰が低く、動作の「切れ」の鋭さでは右に出るものがいなかった。左は、押井営農組合代表理事・鈴木辰吉の父・故鈴木芳夫氏。

ーーどんな仕事をされていましたか?

政光さん 昭和20年から荒川車体に入った。マイクロバスでの送迎があったもんでね。7反の田んぼをやりながら働きに出ました。

その前は、田んぼをやりながら、冬の農閑期は山で薪にする木を伐っていました。斧とノコギリを使ってやっていた。市場で木が売れるとすごいお金になった。元締めが取る、トラックの運転手も取る、それでも山主にもお金が残っていた。みんなが儲けていた。山や竹藪を持っていると、色々売れて全部が金になった。今じゃ、木は伐っても転がしてあるだけ。木を植えすぎちゃって、田んぼが影になってしまっているところもある。

家で、茅で菰(こも)も編んでいた。米を広げて天日で干すのに使ったり、半分に折って袋状にして米を入れたりしていた。

シズ子さん 政光さんと同じ昭和20年から、10年間荒川車体に行った。お姑さんが病気になってしまったので、会社を辞めた。お姑さんが亡くなった後、旭工業で勤め始めました。

取材を終えて

取材中、シズ子さんは「おばあさんの寝床に入って一緒に寝とったんだよね」と、おばあちゃん子だった政光さんのエピソードを紹介し、それを聞いた政光さんがとても嬉しそうに笑っている姿を見て、気持ちが和みました。

大正、昭和、平成、令和。移り変わる時代を100年間生き抜き、今なお朗らかに、仲良く寄り添っているお二人がとても素敵だと感じました。

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