2021.04.08

ひとりひとりを知っているから判断できる〜1500メートル道路を通した後藤芳紀(よしのり)さん

押井町にある農家民宿ちんちゃん亭、その奥にある普賢院(ふげんいん)に行ったことがありますか?

県道19号を曲がって県道490号に入り道なりに車を走らせると、見えてくるのが「自給家族」の旗。そこで右折して上がっていくと5分ほどで到着します。

この曲がり角から普賢院前までの1500メートルの道路。この道が開通したのは平成9年のこと。それまでは上の方に住んでいる7戸は別の山道を利用していました。

子どもたちが学校に通う時に、この山道を通っていくのは真っ暗で怖い。台風が来れば、道は川になり土砂崩れで寸断される。7戸は簡単に孤立してしまうような状況でした。

「あの道ができたもんで二井寺は救われた」

感慨深い様子でそう話すのは後藤芳紀(よしのり)さん。昭和15年生まれの80歳です。押井生まれ、押井育ち。長年勤めた旭町役場に在職中、この1500メートル道路を通すことに尽力しました。

押井について一番良く知っている人。何か決めることがあれば真っ先に相談する人。押井のリーダー的な存在である芳紀さんの人生、押井への想いを聞いてきました。

村人を取りまとめる庄屋だった

インタビューが始まると、芳紀さんは一冊の手帳を取り出しました。見せていただくと丁寧な文字でたくさんのページに書き込まれています。

生まれてから旭町役場を退職するまでの主な出来事についての年表、家系図、祖先の生年月日と命日、旅行に行った日、はたまた毎年の米の取れ高まで。人生の記録と呼んでいいような手帳です。

「うちにある一番古い墓には、元禄2年と彫ってある。江戸初期だ」

芳紀さんのご自宅の隣には権現(ごんげん)さんと呼ばれる小さな神社があります。

1808年に生まれた伊平(いへい)さんという先祖が熊野本山にお参りして権現さんができた、と伝えられているそうです。

「伊平が熊野本山に参った時に、石ころが足袋の中に入った。歩きづらいから出すのだけれど、何度出しても足袋の中に戻ってくる。結局押井に戻ってくるまで石がついて来て、それを権現さんとして祀ったという話だよ」

芳紀さんの生家は江戸から明治にかけて、庄屋(=領主の下で村政全体を担当する、村落の代表者)を務めていました。村人は庄屋の持つ田んぼを耕し、庄屋はその田んぼから採れた米を集めて年貢として出す。飢饉の時には蓄えていた米を村人に施し、そのお礼に村人が権現さんの石段を積んだという言い伝えもあるということです。

石柱

石段の途中にある石柱には「後藤」と彫ってあるのが読み取れる

苦労した幼少期を経て旭町役場へ

立派な家柄に長男として生まれた芳紀さんですが、戦争の影響で幼い頃は家族で苦労を重ねてきました。

「お父さんが昭和19年に出兵、結核になって帰ってきた。66歳で死ぬまでずっと舞鶴の療養所に入っていてね。たまに帰ってくるとうれしかったなぁ。当時はまだ保険制度なんてなかったから、田んぼや山を売って医療費に変えていた。“こーちゃん(父の名前)は銭で(命が)もっとる、そいでなきゃ死んどる”と言われていたことを覚えとる」

「お袋がほんと苦労した。田んぼの水漏れを防ぐ畦(あぜ)塗りという作業をやったり、田植えの時はやってもらえる人に頼んだり。わしでも苦労したよ。四つ違いの弟を連れて学校に行ったこともある。田起こしは中学からやっていた。昔は田んぼが忙しい春と秋に手伝えるように学校に特別な休暇があったよ」

敷島小学校から新制中学校へ。卒業後は家の手伝いをしながら当時小渡町にあった定時制高校に通いました。高校を出た後、持ち山の整備をしていました。5年が経ったある日、旭町役場から声がかかりました。

「固定資産の再評価するための家屋調査をするのに人が足りないって。税務課の仕事。調査をやりに行くようになったら翌年の昭和42年、本採用になっただわ」

ちょうど石炭や薪炭から石油や天然ガスへのエネルギー転換の時代。旭地区の人たちも、マイクロバスに乗って町の工場へ働きに出て、現金を稼ぐスタイルに変わっていきました。

役場で働く傍らやっていたのは竹の出荷。

「なんかやらにゃと思ってさ。竹が結構金になっただよ。春は竹皮を拾って、夏は細い竹を伐って出す。冬も枝が売れた。竹専門で買い付ける商売の人がおった。今となっては考えらないようなことだら」

どうしてもやりたかった道路新設

「役場では色々やった。懐かしいな」と振り返る芳紀さん。税務課、産業課、教育委員会に在籍し、米の生産調整、小学校の鉄筋コンクリート化、旭高原げんき村の開発などを手がけてきました。

平成元年からは企画課の課長になりました。担当したのが農村総合整備モデル事業旭南部地区でした。押井町を含む旭地区南部の圃場整備(=ほじょうせいび:田畑の区画整理と用排水路、農道等の整備を行うこと)や、道路整備を行う国のモデル事業です。

予定されていた事業が終わる見込みが立つ頃、芳紀さんが提案したのが、押井町の上の集落に上がるための1500メートル道路でした。

「どうしてもやりたかった。終わった事業や、やらなかった事業からお金をかき集めて工面した。議会に提案した時に、我田引水なんて言われたこともあったけど、大変な様子をずっと見ていて、直してやらなきゃと思っていた」

工期は平成4年から9年。待ちに待った道路が完成し竣工式が行われました。

旭町役場を退職した平成17年からは押井町の町内会長として農道や林道が整備されるように働きかけました。

「今じゃ押井で、家の前まで車が上がらないところはどこも無い。便利になったよ」

人を見ているから、リーダーになれる

「せんしょなんだわ。せんしょ」

せんしょ、とは余計な世話をやく、お節介ということを表す方言。自らをそう称する芳紀さん。誰かが困っていると知れば、黙って見過ごすわけにはいかない。自分が先頭を切ってみんなの為に動く。道路の新設や整備の他にも芳紀さんのリーダー性が現れたエピソードを伺うことができました。

「敷島小で同級生が55人おった。まだ40人くらい生きとるよ。小学校卒業したのが戦時中だったもんで、卒業アルバムも何もない。だから70歳の時に作って配ったじゃん。70歳当時のみんなの写真を撮影して、昔の写真と合わせて載せた。俺が編集して、お金は栃木で頑張っている同級生が出してくれた」

最後に生まれ育った押井町は芳紀さんにとってどんな場所なのか。聞いてみました。

「押井はみんなが一つの家族のようなもの。仲が良くて、困れば助け合って。いい部落だと思うよ。その証拠にわしが覚えている限りでは、押井の戸数はずっと27軒だもんな。一軒出ていけば、一軒入ってくる。ここ50年は変わっとらんと思うよ」

具体的な人の名前を挙げながら、誰々が押井町からどこに引っ越して、その後、誰がどこから入ってきたと細かく把握している芳紀さん。

印象的だったのは、今回のインタビューで初めてお会いした時、「あんたが執筆しとる発行物、立派だなぁ」と声がけしてくれたこと。地区の発行物に私の名前が掲載されているのを見ていてくれたこと、初対面の私にそれを伝えてくれたことに驚き、同時にとてもうれしく思いました。

聞けば芳紀さんの座右の名は「和して同ぜず」。みんなと仲良くするけれど、むやみに同調せず自分の意見をしっかり持つこと。

関りのある人、ひとりひとりをちゃんと見ている。誰が困っているのか、どんな人がいるのか。それがベースにあるから何かの時にきちんと判断ができる。

それゆえに慕われ、リーダー的存在だと呼ばれているのだとインタビューを通して知ることができました。

ライタープロフィール

木浦 幸加

1979年生まれ。2014年からパートナーの実家がある豊田市の田舎・旭地区に暮らしています。本が好き。文章がいつも私を勇気づけてくれています。まるでページをめくるように相手を取材し、見つけた唯一無二の光を文字にできるようにすることが目標。おいでん・さんそんセンタースタッフ/とよたでつながるローカルメディア「縁側」編集長/最近の関心分野は、薪割り、山登り、ジェンダー平等、IPAビール

「自給家族」について

日本中の山村集落を、消滅の危機から救う為のモデルを創る。キーワードは「自給」と「家族」です。食と農のあり方や、持続可能な社会に関心をお持ちの皆さんが、「自給家族」として支え合う仲間に加わっていただくことで、それは実現できます。

まずはあなたから。次に、あなたの親しいお仲間をお誘いいただいて。押井の里のチャレンジ「源流米ミネアサヒCSAプロジェクト」を応援して下さい。

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