押井の里には、縄文晩期の土器、石器が出土する遺跡が3か所あります。およそ3000年の昔から人の営みが連綿と続けられてきました。狩猟中心の縄文時代、普賢院の創建とされる白鳳時代、戦乱に翻弄された戦国時代、自給自足の暮らしが定着した江戸時代以降、人々はどのような景色をどのような思いで見て来たのでしょうか。
神社、仏閣、古墓の五輪塔、摩崖仏(まがいぶつ)、道祖神(どうそしん)、城跡などの歴史資源が、訪れる人をいにしえの時代に誘ってくれることでしょう。
ロマンと神秘に溢れる押井の里の歴史資源を、ゆっくりと巡ってみませんか。
(各歴史資源の所在地については、こちらのPDF資料もご参照ください)
※調査・文・写真/松井文信・鈴木辰吉
言い伝え/鈴木昇・後藤芳紀
神明神社(しんめいじんじゃ)
所在地は、宮之前2番地。
押井の里の村社、氏神様です。時期不詳ですが、最初にこの地に建てられたのは毘沙門堂(びしゃもんどう)でした。後にお堂の奥に村氏神を祀り、明治4年神明神社と改称しました。祭神は、天照大御神(あまてらすおおみかみ)、伊佐波登美命(いざわとみのみこと)、事解男命(ことさかのをのみこと)、速玉男命(はやたまのおのかみ)です。社殿でありながら、目を凝らすと随所にかつてお堂であったことを想わせる彫刻が施されています。
毎年10月13日が例大祭でしたが、令和になって直近の土曜日に催行されるようになりました。10月の例大祭のほか元旦祭、御八朔祭(9月中旬)、新嘗祭(11月中旬)が催行されています。
【言い伝え】
戦国時代に毘沙門堂は、武田の軍勢により焼失させられましたが、再建の折、普賢院の住僧慧澄(じゅうそうえちょう)が毘沙門像を彫刻、寄進したと伝えられます。このお堂に伯母沢町や榊野町など近隣の村からも人が集い俳句の句会がしばしば開かれていたと伝えられます。
神社への参道は、遥拝所の鳥居から境内の南側に登る道と紺坂から登る道があったと言われます。参道を登り境内に達すると立派な農村舞台がありました。地芝居や歌舞伎などが演じられ、村人の娯楽の場となっていたと言われます。京都の南座(国有形文化財)を模した「引分け式」舞台は、近隣にはない独特のもので、大工の鈴木文太氏が建てたと言われます。また、歌舞伎用の唐紙、屏風が多数あり、管理人を定めて、小渡の劇場や近隣の村にも貸し出していたほどでした。昭和34年の伊勢湾台風で倒壊し、今は見ることができません。
※出典:旭町誌、本編(P174)・資料編(P588)
毘沙門天
所在地は、宮之前2番地。
普賢院の慧澄という住僧が彫刻したといわれています。神明神社と合祀され、9月の御八朔祭に合わせて開帳され、お念仏を唱え、皆で焼香します。ご利益は、金運・開運・商売繁盛・勝運(合格祈願)・健康長寿・厄除などとされます。
※出典:旭町誌、本編(P174)付表
稲荷社
所在地は、宮之前2番地。
神明神社敷地内に祀られています。五穀をつかさどる倉稲魂を祀っています。
かつては、現在の押井公会堂が建設されるまで村人の会合に利用されていた「会所」(松葉地内)の敷地内に祀られていましたが、お参りしやすい現在地に移転され、毎年3月の第2日曜日に祭礼が行われています。昭和の終わり頃までは、小豆おこわのおにぎりが供えられていましたが、近年は、油揚げが供えられ、直会の肴になっています。
※出典:旭町誌、資料編(P592)
御鍬神社(おくわじんじゃ)
所在地は、穴沢20番地1。
旧二井寺村の氏神社でした。普賢院の鎮守として境内に鎮座していました。明治31年10月に現在地に移転しました。祭神は、伊佐波登美命です。
かつては、9月初旬に風神社祭礼と共に例大祭が行われていましたが、毎年4月の第2日曜日に催行されることになりました。文字通り豊作を祈念する農業の神様。押井の里地内に田んぼのある加塩町の代表者らも毎年参拝されます。
昭和の終わり頃までは、茅葺屋根でしたが雨漏りがするようになり、経費などの事情で、現在の神社らしくない片流れのトタン葺屋根に変わりました。
【言い伝え】
お鍬神社のご神体は、押出村と二井寺村合併時に、神明神社に一旦移転されましたが、病気の発生など村内に不穏な出来事が続いたことから相性が悪いとされ、現在の御鍬神社に移されました。ご神体移転後も、神明神社では春の御鍬神社祭礼が続けられ、秋にも御鍬神社の祭礼が行われていたと言います。春の御鍬神社祭礼は盛大なもので、神輿を担いで二井寺はじめ各切を練り歩いたと言います。後に、神官の勧めで、ご神体のない神明神社での春の祭礼は取りやめることになり、春に御鍬神社の祭礼を行う今の形になったと言われます。
※出典:旭町誌、本編(P174)付表
遥拝所(ようはいじょ)
所在地は、宮之前100番地。
鳥居から北北西に神明神社、南南東に御鍬神社を拝むことができます。遥拝所は、地図上で両神社を結んだ線上にあります。山上の社まで赴くことが困難なことから、二つの神社を同時に拝めるよう現在地に設けられたのでしょうか。このことは今も謎です。
田んぼの中にポツンとある遥拝所の鳥居は、押井の里の神秘的な景観を形づくっています。
かつて、遥拝所のある押井川沿いの農道が村内を縦貫する本通りでした。本通りに面して鳥居があり、神明神社に向かって参道がありました。後に現在の県道が通り、県営圃場整備が行われた昭和50年代、神明神社へは太田町に抜ける道路が利用されるようになっていたため、使われない参道は田んぼに変わったという経緯です。
現在も神明神社例大祭の前夜祭に、遥拝所において棒の手隊が川の水で身を清め、棒の手を奉納し、宮入りします。
【言い伝え】
鳥居の石材は、旧二井寺村の穴沢で切り出され、人力で運ばれました。(村人が石を運んでいる様子を写した写真が残っています)現在地よりも神明神社に近い参道中腹に清水の湧く御手洗所があったとされ、そこまで引き上げて鳥居を設置する計画でしたが、大層難儀であったことから現在地に建てられたとも伝えられています。優柔不断で明るく合理的な押井の里の先人の血は、今に引き継がれているようです。
権現社(十二社)と津島神社
所在地は、宮之前47番地。
権現社は、熊野権現で祭神は、家津美御子(けつみみこ)、速玉、牟須美(くまのむすび)です。毎年10月13日、神明神社例大祭と同日に祭られます。権現社には、社に至る急峻な石段が設けられています。大層な難工事であったことが想像できます。
敷地内の石の上に祠があります。これは津島神社で建速須佐之男命(たけはやすさのおのみこと)が祀られています。
津島神社は、疫病除けの神さまで、毎年8月上旬に、天王祭&サマーフェスタと名を変え、公会堂の駐車場を会場に、祭礼とバーベキュー大会が行われています。平成18年から10年間は、盛大な花火大会も行われていました。
かつては、権現社と津島神社の祭礼は、旧盆の時期に同日開催されていました。遥拝所の鳥居に向かう道路に108本のろうそくを灯し、蓄音機で音楽を流して盆踊りが行われていた時期もあります。
【言い伝え】
その昔、後藤伊兵衛(後藤芳紀氏の先祖)さんが熊野本山にお参りした時に、石ころが足袋の中に入った。歩きづらいから出すのだけれど、何度出しても足袋の中に戻ってくる。結局押井に戻ってくるまで石ころがついて来て、それを権現さんとして祀ったという話が伝わっています。
また、権現社、津島神社参道の急峻な石段は、庄屋であった後藤家が、飢饉の時に蓄えていた米を村人に施し、そのお礼に村人が積んだとも伝えられています。
※出典:旭町誌、本編(P174)付表
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秋葉神社
所在地は、神之辻3番地。
火伏の神、火之迦具士神を祀っています。敷地内には、二十三夜神祭塔(にじゅうさんやじんさいとう)、養蚕大祖神の碑もあります。
【言い伝え】
押井の里では、現在も全戸参加ではなくなっていますが、秋葉講が行われています。祀られている秋葉神社と秋葉講の関係は定かではありません。秋葉講は、当番の数世帯代表者が、静岡県の秋葉山(秋葉神社ではなく正当な火伏神を祀る秋葉寺)にお参りし、お札をもらってくる行事です。車が普及するまでは、徒歩や電車の時代もあったようで、講に参加する世帯が旅費も負担していました。現在では、当番世帯がお金を集め、振込と郵送でお札を取り寄せる、合理的ですが少々横着な講になっています。
また、敷地内の養蚕大祖神の碑は、養蚕が盛んだった頃、養蚕業の発展を記念して設置された「記念碑」であり、県道沿いにあったものがここに移設されました。神仏を祀る祠とは異なるようです。
※出典:旭町誌、資料編(P592)
風神社
所在地は、山中38番地3。
押井の里の景観スポットともいえる標高470mの高台に祀られています。
大風から村人や農作物を守っていただくよう、毎年二百十日に近い9月の第1日曜日に祭礼が行われています。令和元年7月に、山桜の老木の枝が折れ社を直撃、全壊しましたが、森林ボランティアグループ山笑会の有志が、再建寄進してくれました。
※出典:旭町誌、本編(P174)付表
※関連コンテンツ:押井の住民じゃない僕らが、ボランティアで「風神様」のお社を直した理由
龍雲山二井寺普賢院(ふげんいん)
所在地は、寺之入22番地1。
江戸時代中頃までは、二井寺と呼ばれていた天台宗の古剣で、寺伝によれば白鳳時代の創建と伝えられています。戦国時代・武田氏の三河攻めで焼かれ廃寺となりましたが、寛永年間、足助則定の旗本・鈴木正三和尚により再興されました。
現在は、無人寺となっていますが、令和2年より一般社団法人押井営農組合が、都市との交流拠点として借用しています。毎年11月の最終土曜日に、押井の里住民と自給家族はじめ森林ボランティアなどが境内整備ともみじまつりを行い交流しています。境内整備ともみじまつりが行われています。また、大晦日には、有志が除夜の鐘をついています。
※出典:旭町誌、本編(P78)・資料編(P589)
おへんび様
所在地は、東之坂3番地3周辺。
磨崖仏周辺は、「おへんびさん」といわれています。このおへんびさんの正体は、30センチメートル位の白い蛇であるといいます。養蚕をしている農家では、蚕や繭を鼠が出て喰うので、おへんびさんに頼むと鼠が出ないといわれています。そしてお礼には卵や繭を供えたといわれています。
おへんびさんは、毎年9月の御八朔祭に合わせて村人で念仏を唱えてお参りをします。
【言い伝え】
昔、家で悪さをする蛇がいると、祟りを恐れて生け捕りにし、この場所に逃がしたと言われます。蛇がたくさんいたことからおへんびさんと呼ばれるようになり、やがて蛇を祀るようになったとも伝えられます。
※出典:旭町誌、資料編(P938)
磨崖仏(市指定有形文化財)
所在地は、東之坂3番地3周辺。
県下でも数少ない自然の岩壁に彫り込まれた仏像。左側は地蔵菩薩。右側は倶利伽羅(くりから)女明王といって不動様をあらわしています。竜が剣に巻きついて飲み込もうとしている様子が見られます。
地蔵菩薩は子どもの守り神、不動明王は厄払いの神とされ、おへんびさんに合わせて参拝しています。摩崖仏を覆うようにそびえる欅の大木は、豊田市の銘木に指定されており、一帯に神聖で荘厳な空気を漂わせています。
摩崖仏の上に鎮座しているのは行者様で、村内にはいたるところに祀られています。この地で亡くなった修験者を村人が弔うために祀られたようです。多くの場合、行者様を祀った土地の所有者がお参りしています。
文久三年(1863年)信州高遠の石工「小池岩吉重房」の作とされます。
※出典:旭町誌、資料編(P649)
二井寺城跡
所在地は、松下31番地1周辺。
天台宗普賢院を望む標高470mにあり、本丸、二の丸、三の丸が縦に並ぶ連格式の山城で空堀が明確に残っています。普賢院同様に、武田軍の三河攻めにより攻略されたとされます。山城マニアや研究者が時々訪れますが、詳細は明らかになっておらず謎が興味をそそります。
※出典:旭町誌・資料編(P165)、豊田市遺跡分布調査報告書・2013.3.29(P142)
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押手城跡
所在地は、梅ケ久保12番地1周辺。
標高420mの丘陵端に設けられた山城で、浅野久保遺跡のあった集落を見下ろす位置にあります。築城年、築城者不明ながら堀切など明確な山城の痕跡を残しています。平成26年度に、散策路と標柱が設けられています。
※出典:旭町誌・資料編(P166)、豊田市遺跡分布調査報告書・2013.3.29(P142)
弓かけ松
所在地は、西垣内20番地。
戦国時代の屈強な武将が、その松に弓を架けて休憩したと伝えられ、赤ちゃんが夜泣きをしたり、あまりよく泣く時は、この松に願いをかけるとよいといわれています。治るとお礼に、男の子は「弓」、女の子は「手まりかボール」をお供えしたので、つい最近まで弓やまりがこの松で見られたといいます。「弓かけ松」は、あさひの民話として語り継がれています。
近年まであった松は枯れ、現在は杉林となっていますが、祠らしき石碑と標柱が建てられています。
※出典:旭町誌・資料編(P175)
経塚と馬千場
所在地は、東之坂26番地1付近。
伊熊町、伯母沢町、押井町が接する峠を馬千場と呼び、ここに経塚がありました。石碑と標柱がありますが、経塚は落ち葉に埋もれて位置が定かではありません。
経塚は、旅人が、河原で石を拾い、お経の一文字を書いて納める場所で、かつては、塚になっていたと思われます。近隣の村にも経塚は何か所かあり、修行、祈願などの方法の一つであったとされます。
武田信玄が馬術の訓練をしたと言い伝えられています。馬千場は、押出城址の谷をはさんだ向かい側にあたり、峠に現れた武田軍を見た村人からは、数十頭の馬も千頭に見えたのではないでしょうか。
詳細は不明です。
お滝さん
所在地は、イフモリ70番地。
滝の水で目を洗うと目の病気が治ったといわれています。
押井公会堂下の炭釜の向いあたりの、押井の川と二井寺から流れる川との合流点付近に祀られています。近寄りにくい場所にあり、今ではお参りする人も少ないようです。
かつては、本通りに面し、旧二井寺村に至る道の辻であったほか、隣接して車屋(水車を回して米を搗く小屋)があったため、参拝者は多く、竹筒に杉の葉を刺してお供えするしきたりだったと伝えられます。
【参考】
車屋は、発動機が普及する昭和40年代まで稼働していました。お滝さんのあるイフモリ、旧二井寺村の穴沢、浅野久保、紺坂の4か所にあり、それぞれグループで管理、順番を決めて米を搗いていました。車屋から遠い家では、足踏み式の米搗き機も使用されていたと言われます。コイン精米や卓上精米機のある暮らしに感謝しなければいけません。
弥三郎の墓(やさぶろうのはか)
所在地は、寺之入21番地。
土人、鳥海彌三郎の墓とされ、天台宗普賢院の境内に他の古墓と共に祀られています。元は加塩町に近い東垣内地内にありましたが、立ち寄り難い場所にあったことから現在地に移転されたとされます。
弥三郎は地域一の猛者で、その武勇伝はあさひの民話として語り継がれています。
【参考】
旭の民話にある「鎌倉塚」は、東北の阿部一族に味方する猛者鳥海弥三郎を源義家に味方する地元の若者鎌倉権五郎が左目を矢で射抜かれながらも討ち果たし、加塩町の鎌倉塚に祀られているというお話です。
源氏の勢力下にあったこの地域が、敵方となる鳥海弥三郎の墓を建て弔ってきたことは謎とされています。その時代、敵味方に関わりなく、あっぱれな武将は手厚く弔うのが世の習いだったのではないかと郷土史研究者はいいます。爽快な気持ちになります。
宮之前遺跡
所在地は、宮之前54番地1。
立地は、山麓の傾斜地。時期は縄文時代。遺跡の状況は宅地。出土遺物は石斧です。
集落内で最も開けた農地が広がる一帯にあり、押井の里が3000年の歴史を持つとされる根拠になる遺跡の一つです。
※出典:旭町誌・資料編(P84)、豊田市遺跡分布調査報告書・2013.3.29(P142)
浅之久保遺跡
所在地は、浅之久保21番地。
立地は山麓の傾斜地。時期は縄文晩期・奈良・平安・鎌倉時代。遺跡の状況は畑。出土遺物は土器、磨製石斧、石鏃、石匕、土師器、灰釉陶器、山茶碗。原始時代の遺跡で昭和8年7月、畑で石鏃と石匕を地元の後藤政一氏が発見したとされます。
※出典:旭町誌・資料編(P85)、豊田市遺跡分布調査報告書・2013.3.29(P142)
鬼ヶ子遺跡
所在地は、鬼ヶ子5番地1。
立地は山麓の傾斜地。時期は縄文晩期・奈良・鎌倉時代。遺跡の状況は山林、畑。出土遺物は土器、須恵器、山茶碗です。
周辺に広い農地がある宮之前遺跡、浅野久保遺跡に比べ、森林内に僅か1反(1000平方メートル)、隠れるようにしてある南傾斜の農地に遺跡はあります。ここにも3000年の人の歴史があることに不思議な感慨を覚えます。
※出典:旭町誌・資料編(P85)、豊田市遺跡分布調査報告書・2013.3.29(P142)
二井寺古墓
所在地は、寺之入21番地。
宝篋印塔(ほうきょういんとう)が普賢院境内に弥三郎の墓と共に祀られています。詳細は分かっていません。
※出典:旭町誌・資料編(P174)、豊田市遺跡分布調査報告書・2013.3.29(P142)
松下古墓
所在地は、松下27番地。
宝篋印塔。二井寺城址本丸の中央に祀られています。城址の中央にありますから、戦国武将の墓とも考えられますが、詳細は不明です。
※出典:旭町誌・資料編(P174)、豊田市遺跡分布調査報告書・2013.3.29(P142)
宮之前古墓
所在地は、宮之前43番地6。
五輪塔。宮之前遺跡にありますが詳細は不明です。
※出典:旭町誌・資料編(P174)、豊田市遺跡分布調査報告書・2013.3.29(P142)
はくささん
所在地は、松葉7番地1。
戦没者慰霊碑などと並んで祀られています。石仏の中に右手を頬にあて、首を傾けておられる観音さまがあります。これは如意輪観音で、村の人達は昔から「はくささん」と呼び、子供の虫歯の痛む時は、名前と年令を書いて拝むと、治るといわれています。
※出典:旭町誌・資料編(P938)
松葉の宝篋印塔(ほうきょういんとう)
所在地は、松葉48番地1。
詳細は不明です。
※出典:旭町誌・資料編(P174)
道祖神
所在地は、永田25番地5。
道を守る神様で、道中安全、村や町に邪気や悪霊が入るのを防ぎます。また、農耕社会では害虫から作物を守り、豊作を願ったといわれています。
【言い伝え】
道祖神は、合併前の押出村と二井寺村の境にあります。道祖神が夫婦円満の神とされていたことから、合併時に押出村と二井寺村が仲良くするようにとの願いを込めて設置されたとされる言い伝えもあります。
戦没者慰霊碑
所在地は、松葉7番地1周辺。
日清・日露戦争、第1次・第2次世界大戦の戦没者の英霊が祀られています。毎年4月の第2日曜日、御鍬陣社の祭礼に合わせて慰霊祭が行われます。
慰霊祭では、石碑には刻まれていませんが、第2次世界大戦の戦没者も合わせて慰霊します。戦没者の遺族は、特別に玉串を奉典します。
土地改良碑
所在地は、松葉26番地1。
昭和53年から61年にかけて取り組まれた県営ほ場整備事業完了を記念して、昭和62年に建てられました。公会堂広場の一角にあります。
見当流棒の手(市指定無形民俗文化財)
旭地区には、江戸の終わりから明治の中頃にわたって「鎌田流」「見当流(けんとうりゅう)」「起倒流(きとうりゅう)」「藤牧検藤流(ふじまきけんとうりゅう)」の4流派が伝承されました。「見当流」は明治13年(1880)近岡村(足助)から押井に伝承され、明治中期から押井から牛地、大正4年(1915)に槙本と日下部に伝承されました。
旭地区では最盛期には11組が活動しましたが、現在では「押井の見当流」「大坪の起倒流」「杉本の藤牧検藤流」が伝承されています。現在は豊田市の文化財になっています。
※出典:旭町誌・本編(P469)