押井営農組合の歩み

先人たちの先見性

上の画像は、現存する最古の、押井農業組合・会計簿です。

押井営農組合がいつ発足したのかは定かではありません。農業協同組合の下請け的業務を担っていることから、農業協同組合法が制定された昭和22年以降に発足したものと推測されます。会計帳簿は、昭和25年から記帳されています。この年の決算額は11,786円84銭でした。

発足当時は、押井農業組合と称していましたが、いつの頃からか「営農組合」に変わりました。何百とある市内の同様の組合の中で唯一「営農組合」を名乗っています。今日、押井営農組合が担っているのは、文字通り「農の営み」であって、生業としての「農業」ではないのです。

先人は、食を供給する農の営みを「業」、すなわちビジネスにしてはいけないと考えたのかもしれません。とするなら先人は、食と農のあるべき姿を達観し、私たち子孫に伝えようとしたのかもしれません。今、私たちは「営農組合」であることに誇りを持っています。

農の営みに転機をもたらした土地改良事業

押井公会堂の一角にある、土地改良記念碑
押井公会堂の一角にある、土地改良記念碑

農のスタイルが、人力、牛耕から機械に変わったのは、昭和40年代後半頃からです。単に農業技術が進歩したというのではなく、機械化に対応した農地の基盤整備、土地改良事業という大事業を成し遂げなければなりませんでした。

経験したことのない組織的大事業、先祖から守り継がれた田畑の交換分合、3割に及ぶ減歩、莫大な事業費負担に目眩いがしたことでしょう。大半の組合員は長期融資を受け、「家の田んぼなのに借金までして買ったようなもの」とささやかれました。

県営ほ場整備事業押井工区は、昭和53年度着工、昭和61年度竣工、事業面積12ha、総工費1億6800万円、組合員は、押井ほ場整備組合を別に組織して事業を成し遂げ、今日の営農基盤を整えました。昭和62年、公会堂広場の一隅に土地改良記念碑が建立されました。

大豆づくりに挑戦するも2年で頓挫

土地改良事業にあたり、相当規模の畑地転換が義務付けられたように、当時の転作義務は厳格で、違反すれば翌年の転作率にペナルティー分が乗せられる程でしたが、押井集落は、個人に割り当て、従順に従ってきました。

基盤が整った昭和62年、行政、JAのアドバイスを受け、転作田を無駄に遊ばせないように、5年で集落を1巡するブロックローテーションによる大豆生産に取組みました。中山間地で初の取組みと注目されました。押井営農組合にとって、初の組織的営農でした。

乾燥用のビニールハウス、種子、農薬、肥料などの資材費が捻出できないため、農作業は組合員全員によるお役としてスタート。慣れない作業に四苦八苦、収穫はごく僅か、組合員からの大ブーイング。大赤字を皆で分担し、歴史的事業は2年で頓挫したのでした。

未来への投資、集落道の整備

モータリーゼーションの進展により、集落の暮らしは車抜きには考えられない時代を迎えました。安全で快適な暮らしを支える広幅員の集落道の整備は、同時に谷間の僅かな農地を潰すことにつながりますが、先人たちは、道路を選択したのです。

平成4年から9年の間に、集落の未来への投資ともいえる2つの集落道整備が行われ、大型車両の通行可能な今日の快適な暮らしの基盤が作られました。

モデル事業集落道

農村総合整備モデル事業(平成4年~9年)では、押井町松葉から松下に至る1,500m、幅員5mの集落道が588,000千円を投じて建設されました。この整備により、台風災害の都度孤立することが多かった二井寺切の暮らしは一変しました。今日では、紅葉、桜、しだれ梅に彩られた「花街道」として親しまれています。

県道笹戸稲武線改良事業(平成5年~8年)は、集落を貫通する幹線道路の拡幅事業で、狭隘で車同士のすれ違いもままならなかった266mが改良され、集落内の全線で相互通行が可能となりました。投じられた事業費は、127,000千円。

今日の押井町の礎となった集落道の整備、未来を見通し奔走した人々に感謝しなければなりません。

集落営農組織に改組

平成26年度導入、4条刈コンバイン
平成26年度導入、4条刈コンバイン

営農従事者の高齢化、後継者不在などによる耕作放棄地の拡大が懸念されたことから、平成12年度より国策である中山間地域直接支払制度に取組み、耕作放棄や獣害への対策、水路・農道の共同維持管理などを集落が一体となって行ってきました。

この取組を通じて、集落の農地を個人任せにせず、地域で守る意識が高まり、平成23年12月に集落営農組織「押井営農組合」に改組、任意団体ながら組織体による農用地保全と営農経営の継続が図られてきました。

押井営農組合の取組は、集落の存続をかけた、「自分たちの村は自分たちで守る」地域自治の取組みでもあります。集落営農組織設立に当たり組合員全員で集落の将来像を定めました。

  • 将来にわたって農地を保全し、美しい農村景観を守る
  • 将来にわたって安全でおいしい米を全量自給する
  • 後継者がなくても安心して耕作を任せられる仕組みを作る
  • 能力に応じて働くことができ、効率的な農作業を行う仕組みを作る

農作業の共同化のためには、組合による農業機械・設備の保有が必要となります。平成24年度にトラクター、26年度にコンバインと機械格納倉庫、27年度に田植機を導入、令和1年度にミニライスセンターを建設しました。資金は、県補助金、借入金のほかあらゆる助成制度を活用しました。

平成27年、集落内に農家民宿「ちんちゃん亭」がオープン。

農家民宿ちんちゃん亭、屋内風景
農家民宿ちんちゃん亭、屋内風景

自然派志向の客層が中心で、農業体験などを通じ家族のような付き合いが生まれ、都市住民とつながり、消費者に支えられる農の営みに大きくシフトし始めました。

農家民宿ちんちゃん亭、来訪者との記念撮影
農家民宿ちんちゃん亭、来訪者との記念撮影

集落内に2か所のビオトープ

昭和61年度竣工の県営ほ場整備事業から30年以上が経過し、これに、近年における猪による獣害被害が追い打ちをかけ、用排水路などの農業施設の痛みが相当進んでいました。

押井集落を含む敷島地区全域で平成24~30年度に県営農地環境整備事業に取組みました。農業の存続が危ぶまれるこの時期に、用排水路、農道整備などに投じられた事業費は、728,000千円。農業を諦めるという選択はできなくなりました。

押井集落では、老朽化した用排水路整備と共に、この事業に義務付けられている生態系保全施設「ビオトープ」整備を自ら申し出ました。水田の水利確保を図るため池機能を持つビオトープが2か所に完成しました。

ビオトープ
押井の里のビオトープ

今後、農地の持つ多面的機能が更に重要性を増すものと思います。多様な動植物、昆虫などの宝庫として守ってまいります。

一般社団法人に改組

平成31年1月8日、非営利一般社団法人押井営農組合を設立登記しました。農業団体の法人化は、農事組合法人が一般的ですが、全国でも異色の農に関わる法人となりました。利益を追求せず、村を守る思いを共有する人の集まりだから「一般社団法人」なのです。

法人化の意義は、確実な農地利用集積、会計処理、雇用等の適正化、社会的信用の確保です。目的は、農用地の保全と営農の継続に他なりません。事業は、水源地である森林の保全はもとより、集落存続のための事業は何でもやる「地域運営組織」です。

法人は、令和元年度に「地域まるっと中間管理方式」による大胆な農用地の流動化に取り組みました。集落内の全農地を農地中間管理機構に貸付け、まるごと法人が借受けました。自作希望農家とは、「特定農作業受委託契約」を締結し、経営権を渡しました。

この手続きにより、農地所有者は、働ける限り農作業を続け、困難になったとき、安心して農地を組合に委ねることができます。組合は、自動的に経営権を取り戻し、直営または他の自作希望者に移すこともできます。決して農地が荒廃することのないシステムです。

押井営農組合・理事一同(中央が代表・鈴木辰吉)
押井営農組合・理事一同(中央が代表・鈴木辰吉)

私たちは、山村集落を消滅の危機から救うモデルづくりにチャレンジします。「強い農業」にも「競争に勝つこと」にも関心がありません。自分たちが生まれ育った故郷を、絶やすことなく次の世代に引き継ぎたいだけなのです。

そのための苦労は厭いません。私たちの取り組む「源流米ミネアサヒCSAプロジェクト」を応援してください。

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