自給自足から高度経済成長期へ〜どの時代にも押井を見つめ続けた村一番の物知り、鈴木昇(のぼる)さん

押井町は、明治時代に押手(おしで)村と二井寺(にいでら)村が合併してできたことをご存じでしょうか。

「合併した当時、2つの村が合併して上手くいくようにって、小さな石が祀られた。俺が子どもの頃には、茶碗に水を据えちゃあ、お参りする人たちの姿を見てきたよ」

合併にまつわる歴史のことや、押井町にどんな植物が自生しているかなど、押井の里いちばんの物知りとして知られているのが、今回お話を伺った鈴木昇(すずきのぼる)さん82歳です。

幼い頃から母親がわりとして育ててくれたお祖母さんについて村の行事に参加し、ほぼ自給自足だった子どもの頃は、野山を駆け回ってて食料をとってきました。戦後高度経済成長期の波が押し寄せ、20代の頃からはマイクロバスに乗って町に働きに出ました。また、昇さんは結核に感染し、それに伴う貧しさ、時に差別と戦いながら生きてきました。

変化がとても大きかった時代の中で、昇さんはどんな人生を送ってきたのか。詳しく聞いたその姿から、押井の里の移り変わりも見えてきました。

「何にもない」家で育った子ども時代

愛知県の郷土芸能、棒の手。押井町には「見当流(けんとうりゅう)」という流派が引き継がれ、二人一組になって、棒、長刀(なぎなた)、槍、鎌を使って秋の大祭に演技を奉納します。

八幡(やわた)神社での棒の手奉納(昭和30年代)

「三男だったおじいさんが、若い頃に八幡(やわた)神社で棒の手やって、おばあさんが惚れちゃったんだわ」

恋愛で一緒になった祖父母。引き継ぐ財産があるわけでもなく、小さな家を建てました。祖父母のあいだに生まれたのが、昇さんの父でした。

昭和14年に昇さんが誕生。母は昇さんが2歳の時に病死し、祖母に育てられることになりました。

「しょっちゅう『この子は乳を飲んだんことがない』と言われていた。おばあさんが母乳の代わりに豆腐を作るときの豆乳や、おかゆをくれていた」

戦争に行って帰ってきた父は、再婚。後妻は結核にかかっていることを隠して来たそうです。

「父の戦友からの紹介で嫁に来たということだった。田舎で空気がいいからという理由だと思う」

食糧調達と牛の思い出

父が土木作業員として勤めに出たり、後妻が縫い物をしたりして生活は少し上向いて来ましたが、食べ物はほぼ自給自足でした。昇さんにも子どもとしての役割がありました。

「その頃はね、肉や魚は盆か正月くらいしか食えない。小さい頃は沢でうなぎが結構釣れよーったよ。秋になるとイナゴがすごいたくさん捕れた。佃煮にしたよ。春になると田んぼにタニシやドジョウがいて、いいタンパク源だったな。それらを捕るのが子どもの仕事のようなもんだった」

山にも分け入ったといいます。

「栗やクヌギが多かったもんで、キノコがたくさん生えていたし、栗も落ちていた。栗は、子どもたちで競って拾った。あそこの栗の木がいいとか、みんながよく知っていた。大きな袋を下げて、30キロぐらい拾ってくる。それを茹でて、日に干して保存しておいて、冬に茹で戻してお茶菓子みたいに食べていた」

昇さんは、小学校4年生くらいから牛に鋤(すき)を引っ張らせて田んぼを起こす手伝いも始めていました。

「今、足助の消防署がある場所に家畜市場があってね。春の競りで仔牛を買って田植えの時期までに肥やして調教する。田植えが終わり、ちょうど豊田の町の方で田植えが始まる頃、その牛を売る。それがいい収入源だった。当時は馬喰(ばくろう)という牛馬の売買・仲介を専門とする商売人がいて、その人たちと取引していた」

無礼講も許される祭りのために

田植えがひと段落して6月からは、10月の秋祭りを目指し準備が始まります。昇さんも、棒の手が大好きだったお祖母さんの影響があって、小学5年生になると地元の先輩たちから指導してもらい始めました。

押井には職人が多く、祭りに向けた準備にはとても力を入れていたといいます。

「伊勢湾台風で倒壊し今はないが、京都にある南座(みなみざ)っていう劇場を見に行って真似して大きな舞台を作ったり、地芝居に使う唐紙の屏風が30本くらいあったり、そりゃあ立派なもんだったよ」

かつて神明神社の隣に建ち、伊勢湾台風で倒壊した大きな農村舞台

1年に1度の祭り。何ヶ月も前から手間暇かけて準備する祭りには、神を祀る以前の祭り本来の意義が垣間見えます。

舞台上で棒の手奉納後の懇親(昭和30年代)

「お祭りの日だけは無礼講で誰もが同じ立場で話をしても良かったもんで。うちみたいに、田畑を借りていて山も全然持っていない小作人は、貸してくれている庄屋さんの言うことを聞くしかない。それが祭りの日には、飲んで無礼講ということで結局は喧嘩になる。俺もよく見てきたよ(笑)」

結核に感染し3年間入院

中学2年生になると、後妻の結核が父親に感染。昇さんは学校にはほとんど行かず米だけでなく麦も育てて家族を支えました。しばらくすると父親が少し回復し、学校に行けるようになった昇さんでしたが、今度は自分が体調に異常を感じ始めていました。

卒業後、父の薦めでいやいや始めた石屋の職人になるための下働き。本来は5年務めるはずでした。しかし1年後、吐血し結核に感染していることがわかりました。

「風呂に入って体が温まった時に咳と共に血が出た。1週間くらい続いたかな。金がないから医者に行けない。保健所で検診したら陽性になっていて入院した方がいいと。今みたいな健康保険がないから難しかったけれど、なんとか足助病院に入院できた」

3日に一人が亡くなる状況で、入院から3ヶ月後に悪くなっていると言われた昇さん。もうダメかもしれないと思っていたら、そのうちに良くなってきたそうです。

「だんだん良い薬ができてきて使えるようになった。結局15歳から18歳まで入院していた」

退院してから2年間は家の百姓の手伝いだけをやり、その後、製材所に勤めました。しかし体を使う仕事は合わないと感じ、職業安定所に仕事を探しに行きました。そこで待っていたのは、偏見の目でした。

「豊田に行っても、岡崎に行っても、威張り散らした職員がタバコを吸いながら『結核やっとるじゃないか!?そんなやつを使ってくれる会社ないぞ!』と言う。やけになって酒を飲んで身体を悪くしようとしたこともあったけれど、一向に悪くならない。ちゃんとした会社に入らにゃいかんと思ったところに、荒川車体工業(株)(旧アラコ)が期間工を募集していて3ヶ月間やってみた」

その後、もう1社を経て、日本発条(株)の期間工として働き始めた昇さん。働きぶりが認められ、正社員にならないかと打診されました。迷った末、受けることを決めました。

正社員になり階級が上がった

「結核だとわかったら雇用されないとわかっていたから、地元の診療所に頼んで、それを書かない診断書を作ってもらったので正社員になれた。2年目に会社の健康診断に引っかかったけれど、精密検査したら大丈夫だった。それからは言われないので運が良かったなと思っている」

正社員になって1〜2年経つと、マイホームを購入。60歳で定年を迎えるまでに、区長(町内会長)を3回務めました。

「押井はね、階級が決まっていて財産がないものに役はやらせないという割と封建的な地域だったから、何にもない俺みたいなのが区長やったのが初めてだったと思う」

当時は、財産の順番に等級が決められていたといいます。その等級は押井の各組の代表が集まり、それぞれの家の生活状況を見て決めていました。例えば「あそこはテレビを買った」、「洗濯機を買った」などでも等級が上がることがあったそう。昇さんはマイホームを買ったことで、『本所普請(ほんじょふしん)』といって階級がぐんと上がったそうです。

「小学校を作ったり、道を作ったりする時に、負担金が各部落にかかってくる。それをどのように負担するかのために階級が決めてあった。財産がある人がたくさん区費(町内会費)を払うように。庄屋さんよりも上の階級の人ができちゃいかんというのはみんなの了解だったよ」

「今は、区費(町内会費)は払っとらんよ。俺が区長だった時に県道の草刈りをやると県から補助金がもらえるようにしたもんで、それを区費(町内会費)に充てている」

大人のやることを見て育つ大切さ

60歳で定年した後、棒の手保存会長として活動してきた昇さん。時代の変化を感じています。

「みんなそんなに棒の手に力入れんようになってきた。練習にもそう出てこないし。このままだと自然消滅みたいな格好だな。会社に勤めるようになって、景気が良くなると残業が多くなる。夜に練習するよと言っても、残業の方が大事だからだんだん来なくなる」

棒の手といえば思い出されるのがお祖母さんのこと。お祭りになると弁当箱におかずとご飯を詰めて「これを食べながら棒の手を見るのがいい」と言っていた姿が思い出されるといいます。子どもたちがたくさん来て賑わっているあの頃。

「そりゃあ、あの時分の方が良かったような気がするな。今は子どもが来てガヤガヤするとうるさいなんていう人がいるけど、昔は女の人に子どもがついてくるのが当たり前だった。子どもが大人のやることを見て育つか、全く知らないままで育つかで人間が全然違ってくる」

公会堂での取材の様子

町に出て働く期間が長くても、昔の押井町のことを聞かれればまるで昨日のことのようにありありと語って聞かせてくれる。

昇さんが押井で一番の物知りになった理由は、誰に教えられたからでもなく、幼い頃から大人たちのいる場所にいて、その姿をじっと見つめ、記憶にとどめてきたから。最後に出てきたエピソードから、そう感じました。

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