箱罠の前に立つお二人(左から松井武夫さん、堀田汎さん)
イノシシやシカなどが山から降りてきて、田畑を荒らす。そんな内容をニュースや新聞などで耳にしたことがあるのではないでしょうか。
実際に、豊田市でも鳥獣により農作物に大きな被害が出ています。豊田市農作物等鳥獣害対策連絡協議会の調査によると、令和5年度の農作物被害件数は6,737件、その金額はなんと、1億2,500万円にも及んでいるといいます。
獣害の影響により、押井町の景色も変わらざるを得なくなっています。田舎の風景に欠かすことのできない田んぼ。その周りに令和6年に鹿対策として大人の身長を超える高さのワイヤーメッシュが、ぐるりと張り巡らされました。
「ひどくなる一方の鳥獣被害。できることで役に立ちたい」と手を挙げて活動し続けているのが、1944年生まれの松井武夫さん(以下、武夫さん)と1942年生まれの堀田汎さん(汎さん)のお二人です。それぞれの生い立ちから、現在の活動内容、やりがい、そして課題についてお話しを伺いました。
押井で過ごした幼少期
――お二人の幼少期から学生時代について教えていただけますか
武夫さん 僕は押井町の生まれです。両親は、以前この「押井の人物アーカイブ」で100歳を超えた夫婦として取材してもらった松井政光とシズ子です。幼い頃は、押井川に罠を仕掛けておいて、それを引き上げて魚を捕ったりしていました。
父は荒川車体という会社に働きに出ながら、7反の田んぼをやっていたもんで、僕も農繁期には半日くらい手伝っておった。確か、小中学校も特別に休みになったりしとったんじゃなかったかな。父は箕(み)という籾と藁くずを選別する竹の道具を自分で編んで、自転車に積んで、豊田市まで売りに行くということもしていて、そんな姿が印象に残っています。
旭中学校を卒業すると、岡崎北高等学校に進学しました。岡崎市に、旭の太田町に縁のある方が住んでいるとわかって、下宿させてもらいました。そこから岐阜大学の電気工学科に進みました。うちがそんなに裕福じゃないのに4年制大学に行かせてもらって「親に苦労かけとる」というようなことを言われたこともありました。

汎さん 僕の出身は押井町から車で15分くらいの明賀町です。6人兄弟の3番目として生まれました。武夫さんと同じように幼い頃は、川でドジョウを見つけてそれを餌に魚を捕って遊んでおった。家は百姓をやっていて、こんにゃくや椎茸を栽培して農協に出荷していて、炭焼きや養蚕もやっていた。父は色々なことを工夫してやる人で、勉強熱心でもありました。カメラをいち早く購入して使っていたことも記憶に残っています。

街で過ごした働き盛りの時代
――その後はどんな道に進まれたのでしょうか?
武夫さん シートベルト、スイッチ、キーロック、シガーライターなどの部品を作る(株)東海理化に就職して押井を離れました。会社では設計や、安全部品を実験する部署を経験してきました。実験の部署では、まだ開発されたばかりの着火式のエアバッグの実験に立ち会ったこともあって、詳しくは言えないけれど色々なできごとが思い返されます。押井に帰ってきたのは定年した60歳になってからです。
汎さん 名古屋の新栄にある金属関係の会社に勤め始めて、寮に入りました。26歳の時にお見合いをして、押井生まれの堀田イツ子さんと一緒になりました。結婚してから2〜3年は押井から通っていたけれど、通勤時間が結構長い。一度交通事故を起こしたことがきっかけで、それからは単身赴任することになりました。その間も、消防団の団員、町内会長、棒の手の演技者など、地元の活動に積極的に参加していました。65歳で定年して押井に戻ってきました。
深刻化する獣害を何とかしたい
――お二人は何がきっかけで一緒に獣害対策の活動をするようになったのですか?
武夫さん 「歴史と自然豊かな押井づくりの会」としてわくわく事業に申請して補助を受けた活動の中に炭焼きがあって、それに参加したこと。汎さんはお父さんが炭焼きをしていたこともあって詳しいから色々教えてもらえたんだよね。

汎さん 鳥獣被害は、昔はそんなに気になるほどではなかったけれど、僕たちが定年して戻ってからは年々ひどくなっていた。平成20年には押井町で補助金をもらい、何百万円もかけて700ボルトくらいある電気牧柵を田んぼの周りに張り巡らせた。
武夫さん 汎さんは34歳の時に猟銃の免許を取って趣味で狩猟をしていたから、じゃあ僕たちを含む押井の仲間4人で東加茂猟友会旭支部に入って鳥獣害対策をしようということになった。僕も汎さんも罠を使って鳥獣を捕獲するわな猟の免許を新たに取得しました。
狩猟には2種類あります。一つが有害鳥獣駆除でこれは年間を通じてやることができる。もう一つが趣味の狩猟で、毎年11月15日から翌年の2月15日が解禁期間と決まっている。有害鳥獣駆除は農事組合から市に駆除依頼書を提出して、市がそれを委託する形で猟友会が駆除をする。
汎さん 押井町には、鉄製の箱罠を大きいサイズ20個、小さいサイズ3個設置するようになりました。僕と武夫さんが半分ずつを担当して、獣が入っているかどうかを、毎日見回っています。入っていれば止め刺しをする。それから、実績報告の書類を書いて市に提出すると規定の補助金がもらえます。
武夫さん 一緒に、証拠として尻尾を提出しなきゃいかんだよ。嘘の報告があるといかんからということで。止め刺しした獲物は、1時間以内に運ぶことができる場合は、足助の新盛町にある山恵という獣肉処理施設で生肉にしてもらえる。それ以外は、埋める必要が出てきます。

一番大変なのは「穴」
――自分で肉にして食べることはないのですか?
武夫さん もちろん食べることもあるけれど、当然頭とか皮とか食べない部分があってそれが残渣として残るでしょ。それを適切に埋めないといけないと決まりがあるの。きちんと埋設しないと、臭いが出て住民の迷惑になったり、他の動物に掘り返されたりしてしまうから。自力で1.5メートルくらいの穴を掘らないといけなくてとにかく大変です。
押井町に住んでいて、米づくりの仕事を請け負っていた後藤鋤雄さんが生きてみえた時には、重機で穴を掘ってほしいって気軽に頼むことができたし、やってもらえたけれど亡くなられたので頼む人がいなくなっちゃった。旭猟友会の他のメンバーから「手で掘っとるの!?」と言われることもあるが、仕方がない。
汎さん まず、箱罠の扉が重いので、それを上げて獲物を出すところから大変。それに僕は足を悪くしてからは穴を掘ることが難しくなった。仕方ないので、ある時、妻と息子に代わりに穴を掘ってもらったんだけど、あんまりにも大変で「二度とやりたくない」と言われてしまいました。
武夫さん 埋設できない場合は、市のごみ焼却施設・渡刈クリーンセンターまで持って行って焼却処分してもらうこともあるんだけど、片道50分近くかかるので、その方法も大変なことには変わりない。
――埋めることに大変なご苦労をされていることが伝わってきました。それでも続けて来られたのはなぜですか?
武夫さん やっぱりみんなが頼ってくれるからかな。仕事をして町を離れていた時は、押井のために何もできなかったので、定年してからは自分でやれることはなんでもやろうと獣害対策に関わるようになったので。
汎さん 旭地区の押井町以外の場所でイノシシやシカが捕まった時には、免許を持っているからということで止め刺しをしてくれと電話がかかってきて出向くこともあります。役に立てて感謝されることがやりがいです。
――押井町に関して、今どんなことを感じているのかお聞かせください。
武夫さん 都会がいくら発展しても、押井町のように自然豊かで二酸化炭素を吸収する場所を作ることは絶対にできません。田舎には山や田畑などに緑がたくさんある。二酸化炭素を吸収して酸素と水を排出する工場のようなもので、唯一無二の重要な場所だと思っています。
手放して訳のわからない人に所有されてはいけない。今、山や土地を持っている人は絶対に守らないといけないと思っている。
汎さん 押井町は空気が良いし、住みやすい。最近感じているのは、昔は田んぼの周りの木が小さかったけれど、だんだん大きくなっていて田んぼの陰になってしまっていること。どうにかしないといけない。

取材を終えて
武夫さん、汎さんが80歳を超えてなお、獣害対策の第一線に立たれて活動してみえることに驚きました。同時に、穴を掘ることがいかに大変かというエピソードを伺って、お二人が中心になって獣害対策を担う状況は限界が近づいているのではないかとも感じました。
「仕事をしている現役世代は忙しいから、こういうことはさせられない」。お二人が何度か口にされていた言葉です。誰もやらないといって文句を言うのではなく、「時間のある自分たちが何とかする」という気持ちの温かさを感じました。この気持ちに甘えることなく、現役世代も一緒になって獣害対策について考えていく必要がある。改めてそう感じる取材でした。